言語の抑揚
マンドリンの演奏曲目はイタリア、フランス、ドイツなど様々な国の音楽を取り上げる。各国の音楽はその母語の言語リズムが音楽の作風に影響を与えている。滝廉太郎や山田耕筰の曲は日本語の抑揚を重視しているといわれる。
日本人はフランスのパリをパリ↘と、語尾を下げて言う。しかしフランス人はパリー↗と語尾が上がる。中国語では四声といって語尾が4種類に分かれる。孫悟空を中国でソンゴクウ↘といっても通じない。スゥェンウークー↗と言えば通じる。齋藤秀雄は「日本の音楽学校で教えているのは日本語のモーツァルトなのです。それでうまくなろうたって、これはなれっこない」という。
日本語ではたいていの場合、子音の後ろには母音がついてくる。そのため green は g の後に u を入れて guri:n(グリーン)、“cream”は m の後に u をいれて kri:mu(クリーム)」と発音する。これは英語圏の人にとって違和感があるようだ。
言葉の区切りとリズム(NTTコミュニケーション科学基礎研究所 人間情報研究部 麦谷 綾子)
私たちは連続する音声を聞くとそこにある種の知覚的なまとまりを感じます。まとまりを感じる手がかりは母語によって異なり、たとえば英語やオランダ語、フランス語を母語とする人は長い音を知覚的なまとまりの終端とすることがわかっています。すなわち、短長短長短長…というリズムであれば、/短長/短長/短長/のように長い音の後で区切ってまとまりをつけるのです。一方で、日本人は長い音をまとまりの終端とする傾向はみられず、むしろ/長短/長短/長短/のように短い音を終端と感じる場合も多くあることが報告されています。
英語をはじめとするヨーロッパの多くの言語では冠詞(“the”や“a”)が名詞の前につくため、句単位のリズムとして、短長(例:“the CAT”)のパターンをとりやすく、一方、日本語では助詞(“が”や“を”)が名詞の後ろにつくために、そのリズム特徴は、長短(例:猫が)パターンをとりやすいのです。言語によってまとまりの付け方が異なるのは、このリズムパターンの違いを反映しているのではないかと言われています。チャイコフスキー 白鳥の湖のワルツの例
日本人はワルツが苦手、といわれます。日本人はワルツの拍子をタ・ターン、タ・ターンと後ろが長い3拍子として捉えていないことが細かな音楽的表現の違いとなって現れ、それが苦手につながるのではないのかと思っています。日本の3拍子の曲の例、星影のワルツ、天然の美
4拍子で1拍、3拍の強いのは日本語的、2拍、4拍の強いのは英語的と言えるだろう。
脳における言語と音楽の処理(角田忠信 脳の働きと東西の文化 1978)
一般的に人間の脳は左半球と右半球に分けられるが、このうち左半球は、言語的機能、数理的・論理的機能に関して優位にあり、分析的・時間連鎖的であるとされ、右半球は非言語的な音楽的・絵画的知覚に関して優位にあり、空間的・全体論的であるとされている。ところで角田忠信の実験によれば、西欧人においては、言語音のうちの子音あるいは子音を含む音節は左半球で処理され、西欧の音楽、機械音、言語音のうちの母音、人声(笑い声、泣き声など)、虫、動物の声は右半球で処理されるが、日本人においては、言語音は子音も母音も左半球で処理され、人声や虫、動物の声さえも左半球で処理されるという。
イタリアやフランスの曲を演奏するのには右脳(感性)と左脳(論理性)の連携を取ることが大事なんだろう。そうだとすると、日本人の右能(感性)は働いているのだろうか。
言語と文字 (松岡正剛著 平凡社新書 白川静参照)
文字は世界のいくつかの地域で発生している。そのひとつである、エジプトのヒエログリフ(hieroglyph、聖刻文字、神聖文字)は非常に古い歴史を持っていて、その発祥はエジプト原始王朝時代以前の紀元前4000年とも言われている。シュメール語の音節を表現し始めた、楔形文字は紀元前2600年頃。
漢字は紀元前13世紀頃の中国の亀の甲羅に刻まれた甲骨文字から発明されたと言われているが、その発祥はよく分かっていない。漢字の「口」に関して我々は人間の口の象形文字から現在の文字になったと教わった。しかし漢字博士の白川静によればそうではないという。
口という文字の下は∪サイと読み、入れ物をあらわす。しかもただの入れ物ではなく祝詞や呪文のような、当時巫女でもあった絶対権力者の王が祭祀、厄災、天候、軍事、収穫、狩猟などをめぐる重大な決定事項を書いた紙や木を収めるものであったという。上の一は蓋となる。つまり口とは本来王の祝詞を入れる器の意味だそうだ。
この文字に表わす以前に歌謡があるという。古代歌謡は文学としては中国の詩経、日本では万葉集に代表される。本来古代歌謡は神に働きかけ、神を動かそうとした時に成立している。白川静は著書詩経において「そのころ人々はなお自由に神と交通することが出来た。そして神との媒介するものとして、ことばのもつ呪能が信じられていたのである。ことだまの信仰はそうゆう時代に生まれた」と書いている。
新・相対性理論 百田尚樹
『カエルの楽園2020』『地上最強の男』などで知られる百田尚樹氏が週刊新潮に新相対性理論を2019年から連載している。その中から2020年7月9日号の
<<人類は物語を作ることで「時間」を封じ込めた>>(一部抜粋)を紹介します。
地球上のあらゆる運動はニュートン力学の法則に則っています。「エネルギー保存の法則」は難しく言えば独立系のエネルギーの総量は変化しない」というものです。乱暴に言ってしまえば、10のエネルギーは10以上にならないということです。たとえ分散しても、それらを集めると10になります。熱や運動に置き換えられたとして、その総量は変わりません。ニュートン力学で説明できない唯一の例は原子核分裂により質量がエネルギーに変化するというケースです。
しかし原子核分裂の他に、ニュートン力学で説明できないものが、もう一つあるのです。それは芸術作品が持つエネルギーです。
画家、作曲家、作家、映画監督、漫画家・・・etc.。あらゆるクリエーターたちが作品を生み出す時、そこには何らかの力があります。それらは「心的エネルギー」と総称されることもありますが、その用語はともかく、創作にはそうした精神的なエネルギーが不可欠です。クリエータたちはそのエネルギーを使って作品を仕上げます。
これを「エネルギー保存の法則」で考えると、作品の中に投入されたエネルギーは、その作品を鑑賞する人の心に感動という形で作用します。たとえば10のエネルギーを注いだ小説は読者の心に10のエネルギーとなって甦るということです。
ところが、古今の偉大な芸術作品にはその法則が当てはまらないのです。その作品に感動する人の総和は、クリエーターのエネルギーをはるかに超えることは珍しくないし、また何十年、何百年経っても、そのエネルギーは衰えないのです。一冊の本の中に、あるいは一冊のスコアの中に、そのエネルギーが閉じ込められ、まったく減衰することなく、読むもの、聴く者の心を震わせるーーこれはいったいどうゆうことでしょうか。
これこそが人類が「時間」をねじ伏せた証ではないかと私は思っています。有限である「時間」の中で生きている人類が、様々な道具やテクノロジーを駆使して、絵や文字や音楽や映画というものに、「時間」を閉じ込めることを可能にしたばかりか、そこに無限のエネルギーを吹き込むことにも成功したのです。
私はギリシャ神話を読むとき、あるいはバッハを聴くとき、その作品の素晴らしさに感動するとともに、人類の偉大さに心が震えます。
イタリア3大テノールと歌 (音楽は嫌い、歌は好き 玉木正之著 小学館文庫)
音楽評論家の玉木正之氏はイタリアの3大テノール(パヴァロッティ、ドミンゴ、カレーラス)に関連して次のように語っている。
歌とは実に不思議なものである。それはただの喉の震えに過ぎない。高い音や低い音、大きな音や小さな音が組み合わされて、ただ空気をゆすり、鼓膜を揺すっているだけのものに過ぎない。とりわけ、イタリア語やドイツ語やフランス語や英語など、オペラで用いられる言葉を日常語としていない我々日本人にとっては歌詞の内容も直接的にはあまり大きな意味を持たない。
ところが、そのただの喉の震えに私たちは激しく心を動かされる。単なる空気の振動に、心が動かされる。なぜか心がしみじみと癒されたり、思わず目頭が熱くなったりする。歌詞の内容どころか空気の振動をを伝えてくれる鼓膜の存在すら忘れ去り、心を直接わしづかみされたような気分になる。(中略)
私たちの暮らしの周囲には今、音楽が満ちあふれている。街を歩けばパチンコ店で流している派手な音楽が歩道にまであふれている。コンビニエンスストアに入ってもデパートのエレベーターに乗ってもどこからともなく音楽が聞こえてくる。都会の真ん中にも郊外にもカラオケボックスが林立し、自宅の居間でテレビのスイッチをひねると常に音楽が流れている。
それは、けっして音楽的環境に恵まれている、と言える状態ではない。音楽があふれすぎた結果、逆に本当の音楽の素晴らしさを忘れてしまった状態とでもいえばいいのか、心の底から魂をふるわせられる機会は確実に減っている。
そんな現代社会の中で「本物の歌」を多くの人々に広めようとする「本物の歌手」たちがいる-- ということは、本当に素晴らしい事だと思う。パバロッティ太陽のテノール(2019年公開の映画)
なお、プラシド・ドミンゴは2020年現在テノールではなくバリトンで活躍。パヴァロッティは2007年に亡くなった。白血病から奇跡的に生還したホセ・カレーラスは2020年では新型コロナの影響でリサイタルが制限されているが、世界のトップテナーとして活躍している。
近現代は合理的に説明可能であるものこそが本質的と考えてきたが、ショーペンハウエルやニーチェは世界の本質は合理的精神によって捉えることのできない心の深層にあると考えた。作曲家ワグナーは,絵画や彫刻と異なって,音楽は意識の産物でなく,無意識の暗部にひそむ情念を直接的に表現するものであるという考えを示している。(人間の感性への挑戦 -ホール・劇場の音響設計技術 日高孝之氏の論文より。)
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